あいちトリエンナーレ、大巻伸嗣「Echoes Infinities―永遠と一瞬」に足を踏み入れるイベント@愛知県美術館、行ってきました。
「作品を踏む」なんてことは滅多にできないので、貴重な体験だったと思う。
僕はこの体験にかなり美的価値を感じているのですが、その理由を書いてみようかと…。

 

大巻さんのこの「永遠と一瞬」はシリーズとして制作し続けておられるらしく、これまでも観客に足を踏み入れさせるということはあったみたいです。

 

個人的には、「自由」を謳うはずの芸術が、必死に作品を観客の暴力から守ろうとしているのはイロニカルな状況だと思っています。芸術は制度からの自由を訴えながら、自らが作品を守る制度として機能してしまっているからです。

そうした解放的美術制度に乗じつつ、反しつつ、作品に対する鑑賞者の自由を保証する点で、今回の足を踏み入れるというイベントはとても面白いものでした。

 

更に言えば、このイベントでの体験は、美術制度に乗りつつ反する(あるいは反しつつ乗る)という社会的な体験に止まりません。

作品自体、岩絵具を何時間もかけてフェルト地に乗せて描いたもので、希少性が高く繊細な作品であって、それを破壊するという行為では、目まいを引き起こすような感覚を感じます。目まいとまではいかなくとも、「足を踏み入れる」という行為を介して、作った人や作品への想像力を、比較的直接的に喚起させられるのではないでしょうか。

 

今回のイベントは、あいちトリエンナーレの会期の終わり頃に開催されました。つまり、会期中、開放される以前の時期に来たときには、作品に足を踏み入れることは禁止されていました。
「足を踏み入れることが許されていない」時期があったことで、足を踏み入れた時の体験の強度がより強まったのではないかと思っています。逆に「足を踏み入れる」という体験によって、それ以前に作品を「足を踏み入れずに見た」体験の美的価値がぐっと高まったと言ってもいいかもしれないですが、ともかくこの二つの時期(踏み入れ可と踏み入れ不可の時期)があったことで作品の強度は増していると思います。「踏み入れ可」の時期は開放的に見ることができるのに対して、「踏み入れ不可」の時期には、立ち入る場所が限定されていて、この開放と緊張のコントラストが効いているという感じでしょうか。

 

さらに、この「踏み入れ不可」の時期の作り方が洗練されていたように思います。作品が展示されている開かれた空間内では、等間隔に置かれた石の上だけを歩くように指示され、また、その空間に入る前に真っ白で何もない通路を通らなくてはならないようになっていました。苔むした日本庭園の飛び石の上を歩くかのような緊張した状態で作品を見ることが強いられたわけです。真っ白で潔癖空間の中で。

さらにもう一つ付け足すなら、この飛び石が空間内の端の方に敷かれているせいで、作品自体ほとんどよく見えなかったということも制限のひとつだと言えると思います。


というわけで、単に絵画や彫刻を見ているときにはあまり感じられることのない緊張と緩和の両極のあいだに、見る者を引き込むというのが、この作品の美的価値のひとつであり、幸運にもこの二つの時期を体験できた僕は、かなり感性を揺さぶられたのでした(誰かに踏まれ、滲んだ蝶や花の図像さえ美しく見えてしまう…)。

あいちトリエンナーレは23日まで。あと一週間しかやってないですが、近くに住んでいる人はぜひ。個人的には、プエルトリコの作家アローラ&カルサディーラの、オウムが喋る設定の映像作品@

愛知県美術館も好きです。
参考記事
http://spice.eplus.jp/articles/73765