休日になると、これでもかというくらい人が押し寄せる上野。人々は、家族や友人、恋人を連れて、余暇を満喫する。

この写真の奥では、タイの食や文化をテーマにしたイベントが催されていた。さらに、木々を超えて、駅も超えたあたりにあるのは、アメ横である。この写真の奥行きには、異文化が隠れている。もちろん、他にも、美術館や博物館、商業施設がこの写真の外には存在していた。

写真は、世界を切り取る。この写真に写り込んでいる世界はたしかに「在った」世界だが、同時に、この世界に写り込んでいなかったとしても、たしかに「在った」世界がある。

常識的には、写真は、現実をそのまま写し取ると思われがちである。だから逆に、現実をそのまま伝えるわけではないと主張されがちである。

では、写真が伝えるのは何か?写真はイメージを伝える。それ以上でもそれ以下でもない。ドゥルーズは、フランシス・ベーコンの手法に基づいて写真をクリシェとして位置付けたが、それはおそらく写真に否定的な意味を与えるためではない。むしろ、写真には、それに伴う物語の力を最大化させる効果があるということを示すためだ。(ベーコンはこの力を正しく乗り越えたからこそ、絵画に力を与えられた。)

写真は、それ自体が瞬間的で刹那的なものでしかないからこそ、余白が多く、語りを受け入れやすい。想像力が働く余地を多く残してくれる。

写真技術の発達によって画家が地位を奪われたのは、写実性というよりもむしろ、物語を受け入れるこの寛容さ(sensitivity ?)のせいではないだろうか。物語を発する絵画よりも、物語を受け入れる写真。そして、絵画は写真に対抗すべく、物語を受け入れやすいよう抽象化していったのではないだろうか