映画『メッセージ』をみて来たのでその感想とかとか。

 

地球にやってきたエイリアン。彼らの話す言葉を理解しないと、彼らが地球にやってきた目的がわからない。彼らは何もしてこないが、何もしてこないが故に逆に不気味…。なんとかして彼らの言葉を理解し、彼らが地球にやってきた目的を理解しなければ。そうでなければ、最悪の事態を想定して、武力で対処するしかない。しかし武力が効く確証もない…地球の平和は、彼らの言葉を解読する言語学者の手に委ねられた。
というのが、あらすじ。

しかし待て。どこからどうやって来たのかもわからないエイリアンの言葉をどうやって理解しようというのだ…。子供に言葉を教えるみたいに、順番に確かめていくしかない…。「私は人間です」うおーん「私はイアンです」うおーん「あなたは?」うおーん。(「トトロ!トトロって言うのね!」)どうやらこっちの言葉を理解しつつ、返事をしてくれているらしい。と言うことは、最後のうおーんは彼らの名前や!

と言う感じで話しは進むけど、このへんからうらすじが見え始める。いや待て、本当に彼らの最後のうおーんは彼らの名前なのか?単に「わけわからん」って言ってるだけじゃないのか?それをただ、こっちが名前を言ったから向こうも名前を言っていると思ってるだけじゃないのか(カンガルーの都市伝説)。たしかにその可能性もあるけど、疑っても仕方ない。とりあえず彼らとは上手いことやってる。だから大丈夫(として話は進む)。
ここでうらすじを読む観客は気づく。なるほど。そもそも相手の言葉を理解することと、相手そのものを理解することとは別なのだと。そして、言語学者はたぶんそのことを知っているのだと。対して、科学者や軍人、政治家は、相手の言葉を理解することと相手そのものを理解することとを混同しているのだろうと。
うらすじを読む観客は思う。この映画は、表向きには人間対エイリアンの映画だが、裏では言語学者(言語哲学に基盤を置く人文系も広く含む)対科学者の争いがある。科学も新たな言語を生み出す営みではある。だからこそ言語学者と科学者は結婚できる。しかし、二者には決定的な不和があるんだろう。二人が未来に別れてしまったように。(しかしそれはすでに決まっていた、到来すべき未来だった)。
その不和とは…。科学者は、未来が現在から予測できないということを認められない。だから、現在現在から想像できない子供の死を受け入れられない。彼は、未来は現在の因果のもとにあると信じていて今の延長でしか未来を考えられないのだ。対して、言語学者は、未来と現在とが因果関係で繋がってはいないことを知っている。しかし関係はしている。彼女は脳の片隅で「知っている」のだ。

裏対立がわかってきたあたりで、表では言語学者が普遍言語を手に入れる。言語は時空を超え民族を超える道具であり、あまりに力が強いために武器とまで言われるわけだけど、それがさらに普遍であるのだから、最強の武器である。実際に、それであらゆる問題が平和に解決する。
なぜなら、時間系列と因果を分けて考えられる彼女は、複線的な時間で考えることができるから。彼女は、同時に複数の時間が共存できることを知っているし、同じように、同時に複数の「歴史」や文化が共存できることを知っている。そういう彼女にこそ、世界を平和のうちに収める権利がある。

この映画は、単に未来が見える超能力者の神秘を描いたのではなく、世界そのものと言語を通した認知との原理的な違いを認識する言語学者(もっと言えば人文学者)の可能性を示したのだと、うらすじを読む観客は思うのだ。