メキシコの女性画家フリーダ・カーロ。
彼女の半生を描いた映画。

彼女の人生について紹介する本はたくさんある。(Amazon

 

彼女は、若い頃に事故で体を不自由にし、

手術を繰り返しながら、身体の不自由と痛みに耐えて生きていく。

 

政治的状況や、浮気を繰り返す夫などのドラマチックな要素もあるが、

僕としては「身体的苦痛」をメインテーマとして考えたい。

 

この映画を見ながら、彼女をモチーフにしたアートを思い出した。

一つは、石内都の、フリーダの遺品を撮影したシリーズ。

もう一つは、森村泰昌の、フリーダになりきった写真作品。

 

彼女の絵画は、一見、シュールで、幻想的に見える。

しかし、この映画を見ればわかるように、彼女の絵画は彼女にとっての現実そのものである。

普通、現実というのは、万人に共有されうるものだと考えられ、「客観的事実」と呼ばれることが多い。しかし実際には、主観的な事実、本人にはそう見えたという事実の方がずっと現実的であることも多い。彼女の絵が幻想的に見えるのは、彼女の主観的事実が描かれているからだ。

客観的事実ではないことなど問題ではない。そんなものを描いたところで、彼女が見て、感じた現実は伝えられないからだ。

問題があるとすれば、見る者に想像力がない場合、あるいは何か共通する経験がない場合、彼女の絵は何も伝えられず意味を持たない、という点だろう。しかし、それも重要なことではない。彼女の絵に共感する者がいる限り、彼女の絵は価値を持ち続けるからだ。

フリーダの絵の存在価値を証明する作品が、石内都の作品なのである。

石内都は、フリーダの遺品を撮影することで、フリーダの身体性を描き出し、フリーダ自身が見る者にとって他者であるが故に存在する断絶を、新たな想像力で補完できるようにするからだ。

つまり、フリーダを理解するための糸口を、石内都の作品は提供してくれる。痛み、痛みを伴った身体、痛みを伴った身体とともに生きる精神性。撮影されたフリーダの遺品は、それが現実だったことを伝えるのである。(これは写真だからこそ可能な表現効果だと思う。絵画や動画はあまりに虚構的すぎる。この映画でも、彼女の主観的現実を表現するための工夫がいくつかなされていた。)

 

対して、森村の写真作品は、そうした共感がそもそも可能であるかを問うものだ。森村はフリーダの格好をしてみるが、しかしそこでフリーダの痛みを共有することはできるのだろうか。

だが、その問いは、石内都の作品が提示する問いによって、無効化されているのではないか。そんな気がする。

 

 

何れにしても、フリーダ・カーロが苦痛とともに生き、その中で自分自身であり続けようとしたことがよくわかる映画だった。

映画として完成度が高いかは置いといて、フリーダ・カーロという人が生きた痕跡を知るために見ておくことは無駄ではないと思う。