ザ・スクエア感想〜映画館で観るべき映画

 

第70回カンヌ映画祭にてパルムドールを受賞した映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(原題: The Square)。日本では4月28日に公開されており、ヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞してきたのでその記録と所感をば。

 

色々な側面を持つ映画だけど、映画館で観るべき映画だと思います。

どんな映画か

あらすじ

現代美術館のキュレーターであるクリスティアン(クレス・バング Claes Bang)が主人公。
彼は、次の展覧会に「ザ・スクエア」というタイトルの作品を展示しようと企画している。その準備を進めているある日、携帯と財布をスリに盗られるてしまう。当日のうちに携帯のGPSを頼りに犯人の住むマンションを突き止めると、そのマンションの全戸に脅迫状を投函し犯人を見つけ出そうとする。結局は、財布と携帯も返ってくるのだが、「ザ・スクエア」のためのPRとして流した動画が炎上したりと、色々な問題が噴出し、クリスティアンは辞任にまで追い込まれてしまう…。

監督

監督は、スウェーデン出身のリューベン・オストルンド。彼は、これまでにも『INCIDENT BY A BANK(原題)』(2010)がベルリン国際映画祭の短編部門において金熊賞を受賞するなど、活躍している若手の気鋭監督。『フレンチアルプスで起きたこと』はAmazon Videoにも置いてある。

以下のインタビューでも語っているように、好きな映画監督はミヒャエル・ハネケ。繊細に画面を構成していくハネケの精神は彼にも受け継がれているようで、この映画『ザ・スクエア』も一画面一画面がとても美しい映画だったと思う。

映画学校で映画を学んだと言うオストルンド監督。影響を受けた映画人は?

―ミヒャエル・ハネケです。彼のユニークなアプローチや慈悲の無さ、それでいてシーンを作り出す時の繊細さや丁寧さに触発されました
【ELLE】インタビュー

ちなみにミヒャエル・ハネケの映画で一番好きなのは、『愛、アムール』。たしか老々介護の生活を描いていたんだけど、映像がとても美しい。ハネケのこの作品もパルムドール受賞作。

生み出される一体感

さて、本題に話を戻そう。

もし「映画館で観るべき映画」ランキングがあったら、僕はこの『ザ・スクエア』を1位に挙げる。
なぜなら、この映画は非常に強い空気感を作り出す映画であり、その空気をもっともよく感じられる状況とは、暗闇の中に多くの他人と共に押し込められスクリーンを凝視させられるあの空間だからだ。

傍観者効果

では、どうやってこの映画は、空気感を作り出しているのか。
一般的には、映画が空気感を作り出す要因は、各々のシーンの視覚的な美しさや、音楽的なテンポの良さ、俳優の演技のうまさだったりするが、この映画がすごいのは、映画内の物語が持つ構造に観客を巻き込むことで空気感を作り出している点だ。
その構造を理解する鍵は、日本語版公式ページにもキーワードの一つとしてあげられている「傍観者効果」である。

傍観者効果とは、他人が助けを求めている時、自分以外に傍観者がいる場合、率先して行動を起こさない心理を表す社会心理学用語の1つ。
公式ページ

この映画では、いたるところにこの傍観者効果が描かれる。

社会格差的傍観

序盤では、社会格差的傍観者が頻出する。

クリスティアンが携帯と財布を盗まれるシーンもその一つである。そのシーンは、街中での慈善団体の呼びかけで始まる。しかし、その呼びかけに応じる人はいない。続けて、女性が「助けて!」と大声で叫びながら走ってくるが、それを自発的に助けようとするものはいない。彼女を助けるのは、彼女がぶつかった男性と、その男性から直接声をかけられたクリスティアンだけである。その後、クリスティアンが携帯と財布を盗まれたことに気づき、「携帯を貸してください」と道ゆく人に声をかけるものの、それに応じる人はいない。

他にも、移民と思われる物乞いたちが映画内で頻繁に描かれている。「小銭をください」と求める物乞いに応えるものはいない。

文化格差的傍観

クリスティアンは現代美術館のキュレーターである。彼の傍観性は、「ザ・スクエア」という作品によく現れている。作品に付されている声明文は、「ザ・スクエアとは信頼と思いやりの聖域。その中では我々は皆平等な権利と義務を共有している」というものだった。作品はそう宣言しているが、しかし、実際の社会にどれだけの影響を与えられるだろうか。

この「ザ・スクエア」という作品は美術館の中庭に設置される。鑑賞者はこの作品を見て、その場で思いやりを発揮するかもしれない。しかし、美術館の外に出てもなお、「社会的格差」の目の前にして、傍観者であることをやめることができるだろうか。
少なくとも映画内では、そういった鑑賞者は描かれていない。

つまり、この「ザ・スクエア」という作品は「社会格差的傍観」をやめようと謳うが、その作品自体はその格差や傍観に対して傍観している。そして、それはその作品を享受するクリスティアンや、クリスティアンに代表される現代アート界も同じだというわけだ。アートに興じる者たちは、社会問題を告発しながら、その問題の解決に直接動くわけではない。彼らは、芸術という文化的資本の上位に位置し、非文化的な現実的・社会的問題の場に対しては傍観者的な立場を貫いている。

クリスティアンが窃盗事件に対して、「脅迫状を送る」という卑劣な行動を取れたのは、切迫した状況や彼の部下に提案されたという状況のせいもあるが、結局は彼が社会的格差に対して傍観する立場(文化格差的傍観者の位置)にあったからである。

批評家的傍観

さらに、文化格差的傍観を傍観する者がいる。彼らは、様々な格差やそれに対する傍観を俯瞰し、冷笑する位置にある。一般的には、「批評家」と呼ばれる位置である。批評家は、社会格差にも文化格差にも距離を置き、それらの問題を傍観し冷笑する。

ただし、この映画には批評家は出てこない。代わりに、この映画を見ている観客自身がこの位置を占めている。観客は、映画内で起こる様々な傍観に対して、同情したり共感したりもするだろうが、結局のところそこで起こる問題に何か対処するわけではない。

もちろん観客が映画内の問題に手を出すことは原理的に無理な話だ。映画にはスクリーンという第四の壁があるし、映画内の世界は単にスクリーンに映し出された光の集積でしかない。そもそも映画内の世界自体、作り出された虚構でしかないのだから。

瓦解する傍観者構造

しかし、モンキーマン(テリー・ノタリー Terry Notary)が暴走するシーンでは、映画内の登場人物が皆、映画内での出来事に対して傍観する立場を貫く。クリスティアンも、一度はなだめに入ってみるものの、すぐに諦めて席に戻り、目を伏せてしまう。こうして主人公ですらも、またエキストラ300人を含めた映画内の人々が、彼らの世界に無関心になってしまう。

このとき観客は、全く別世界だったはずの映画内の世界に対して、傍観者であるがままに当事者として引きずり込まれる。

本来であれば、どんな緊迫した状況が映画内で繰り広げられても、観客が映画内の出来事に対して当事者にはならない。しかし、この映画は、観客を映画内の出来事に引き摺り込む力を持っている。なぜそんな力があるのかといえば、もっとも緊迫するモンキーマンのシーンまでに「傍観者」関係の構造を作り上げ、その構造の中に観客を取り込んでいるからだ。そして、モンキーマンのシーンでは、傍観者関係の構造が破壊されその構造に取り込まれた関係者全員が傍観者の位置を奪われる。これがこの映画の持つ引力なのだ。

映画の持つ効果を最大にする方法

傍観者効果は、他者との関係に囚われて、倫理的に正しいはずの行動を取れないことを意味する。
逆にいえば、他者との関係がなければ、傍観者効果もない。
映画館で映画を観るということは、隣に見知らぬ他人が座っているという状況の中で映画を観ることに他ならない。だから、傍観者効果による構造により強く囚われ、この映画の持つ力をより強く感じるためには映画館で観るのが最適な方法なのである。

 

 

 

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