分人って何?っていう問いに答えられないかと思い、概要と関連情報等をまとめてみた。ジル・ドゥルーズ『記号と事件』から平野啓一郎「空白を満たしなさい」まで。分人概念を社会性と個人性の二面に分けて考えてみる。(随時更新あり)

歴史

  • ドゥルーズ

「分人」概念の発祥は、20世紀のフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze である。
ドゥルーズが「分人 dividual」の概念を提示したのは、フランスで1990年に出版された『記号と事件 1972-1990年の対話』という著作のなかに収められている「追伸 —— 管理社会について」という論考の中である。そこでは、「個人 individual」とは異なった概念として、分人概念を提起している。
(ちなみに、『記号と事件』は主にドゥルーズへのインタビューが掲載されていて、自身の過去の著作を振り返ったりもしているので、ドゥルーズの入門としてもおすすめ。)

その一節が以下である。

いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではない。分割不可能だった個人 ( individus ) は分割によってその性質を変化させる「可分性」( dividuels ) となり、群の方もサンプルデータ、あるいはマーケットか「データバンク」に化けてしまう。

「追伸 —— 管理社会について」『記号と事件 1972-1990年の対話』 河出書房新社 所収

ここでの分人は、マーケティング用語でいうところの「ペルソナ」のようなものを指しているだろう。これまで個人だと思われていたものは、いくつかのパラメータの集合として扱われるようになっているという批判である。

こうした批判の背景としては、フーコーの『監獄の誕生』で、人々を管理する権力の携帯の歴史を描いたことがある。フーコーが提示した、18世紀から19世紀の権力の形態を、ドゥルーズは「規律社会」と名付けた。

それに対して、より新しい権力の形態は「管理社会」であるとドゥルーズは言った。その管理社会においては、人々は「個人」というよりもむしろ「分人」であるのだという。

  • なめてき

ドゥルーズが示した新しい社会のあり方を、実際に実現させていこうという主張をした著作が、鈴木健『なめらかな社会とその敵』である。例えば、個人概念に依拠した社会では選挙の投票権は一人一票だが、分人概念に依拠した社会では一人10票でもいいのではないか、という主張である。

  • 平野啓一郎

平野啓一郎は、そうした分人の概念を新書や小説などで紹介している。『私とは何か――「個人」から「分人」へ』や『空白を満たしなさい』である。

『空白を満たしなさい』は、一度自殺した40歳の男が、死後生き返ったのちに自分が自殺した理由を探すという話だ。男が自殺した原因を探し求める中で、「分人」という概念が援用されている。
この小説を含めて平野啓一郎氏の活動は、分人という考え方が、社会のあり方を語るためだけでなく個人のレベルで自分自身と向き合うときにも有用だということを示してくれている。

社会レイヤーの分人と個人レイヤーの分人

上で見てきたように、分人の概念には、社会のあり方に関わるレベルと、個人の内省に関わるレベルとがある。

社会レイヤーにおける分人

  • 規律社会と管理社会の区別

規律社会とは、例えば、学校や家族や工場のように、それぞれの環境で独自のルールを持っていて、そのルールによって個人が支配される社会のあり方である。

彼らは、監視の視線を徐々に内面化させていくことになる。つまり、自分で自分を監視するようになる。
そしてフーコーによれば、この「視線の内面化」こそが、規律訓練型権力の雛型をなしている。
規律訓練型権力とは – はてなキーワード

それに対して、管理社会の例としては、学校に対する生涯教育、工場に対する企業があげられる。
こうした二つの社会の対比についてドゥルーズは次のように語る。

規律社会には二つの極がある。ひとつは個人を表示する署名であり、もうひとつは群れにおける個人の位置を表示する数や登録番号である。・・・(中略)・・・逆に、管理社会で重要になるのは、もはや署名でも番号でもなく、数字である。
「追伸 —— 管理社会について」『記号と事件』河出文庫 p.361

  • 行動履歴データによる管理

規律社会における個人のあり方は簡単に想像できると思うので改めて説明する必要はないはずだ。
では管理社会で重要になる「数字」とはどういうことだろうか。
それは、ビッグデータなどにおいて「ユーザー」を把握するときに使われる「行動履歴」のことだと考えられる。

ビッグデータによるユーザー行動の管理を徹底しているのはNetflixが有名。ユーザーを行動履歴で管理するようになれば、ユーザーに次の行動を促すためにIDを使う必要はなくなる。(システム上はIDが付与されるが、システムからユーザーへの権力行使においてはIDは必要ない。)行動履歴データから次におすすめするべき映画は決定され、ユーザーにオススメされるのだが、そうした「レコメンド」機能は管理社会における「権力行使」だと言える。

http://ayablog.com/?p=701

他にも、Cookie付与による行動履歴の管理とそれに基づいたGoogleやCriteoのレコメンド広告も同様に管理社会的なシステムだと言える。そういった広告に居心地の悪さを感じるのは、広告配信システムにコントロールされているという感覚を覚えるからだろう。

個人レイヤーにおける分人

個人のレベルで「分人」を考えることもできる。つまり、権力論ではなく、自己論としての分人である。
NetflixとGoogleで同じ個人でも全く違うレコメンドをされるように、分人という考え方には、「個人が関わる場や文脈によってその捉えられ方が変わる」というメインコンセプトがある。
例えば、関わるコミュニティや場によって、「キャラ」が変わるというのも分人的な考え方の一つである。

ちなみにキャラとは何か、考えてみたい人は斎藤環の「キャラクター精神分析」とか面白いと思う。

  • 本当の自分が見つからない

「本当の自分が見つからない」と悩んでいる人には、分人の考え方が助けになるかもしれない。

本当の自分が見つからないという悩みを持っている人は、実は、「場の空気に合わせてしまい、自分がしたいと思っていたことができなかった」経験が多くある場合がほとんどだと思う。
「本当の自分が見つからない」という悩みは、何か「本当の自分がある」と思う経験がなければ出てこないだろうし、そう思わされる経験とは多くの場合、周りの流れに流されてしまう経験だろうからだ。

さらに、それが「悩み」であるということは、「周りに流されてしまった結果出てきた自分」つまり本当の自分ではない「偽りの自分」というものがあって、そういう偽りの自分を否定しようという気持ちを持っている。

では、そういう悩みを持っている人に対して「分人」という考え方からは何を言えるのかというと、そういう「偽りの自分」というものを否定することはないよ、ということである。

平野啓一郎の小説でも出てくるが、あなたがその時話している相手に合わせて演じる偽りのあなたも、あなたが持つ「分人」の一つだし、あなたが一人で自分のことを考えている時のあなたもあなたが持つ「分人」の一つなのだ。

すると多分、あなたがあなた自身を肯定できるタイミングは今よりもずっと増えるのではないかと思うし、もし自分でしんどい分人を持っているならその分人を生み出す環境にいる時間を減らすことで、人生は豊かになるだろうと思う。