園子温とは

園子温は、 1961年12月18日生まれの日本の映画監督。
『愛のむきだし』や『ヒミズ』などが代表作です。
『ヒミズ』は第68回ヴェネチア映画祭に出品され、主演の染谷将太と二階堂ふみがマルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞していて、
『愛のむきだし』は、第59回ベルリン国際映画祭フォーラム部門 カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞しています。


詩人としての園子温

園子温監督は、学生時代に「ユリイカ」「現代詩手帖」に詩を投稿・掲載しており、
詩人としての才能を若い頃から開花させていました。

そうした詩人としての側面は、映画にも生かされており、
彼の作る映画にはほぼ必ず詩の引用があります。

例えば、『ヒミズ』では、ヴィヨンの「軽口のバラード」が引かれています。

他にも、『恋の罪』では田村隆一の「帰途」という詩を、
『愛のむきだし』ではコリント書の第13章を引いています。

園子温監督にとって詩は、映画を作る上でも大きな割合を占めているわけです。

自己との関係を問う

『ヒミズ』で引用されているヴィヨンの詩は以下のような一節です。

―牛乳の中にいる蝿、その白と黒はよくわかる
どんな人かは、着ているものでわかる
天気が良いか悪いかもわかる
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる
樹脂を見れば木がわかる
皆がみな同じであれば、よくわかる
働き者か怠け者かもわかる
何だってわかる、自分のこと以外なら。ー

本来、自分のことを一番よく知っているのは自分のはずなのに、
実は自分のことが一番よくわからない、という逆説的な詩ですね。

こうした「自己との関係」は園子温の映画に通底するテーマです。

女子高生が集団で一斉に飛び込み自殺をする事件を描いた『自殺サークル』では、
「あなたはあなたと関係していますか?」という問いが繰り返し現れています。

園子温監督の、映画監督としてのキャリアのスタートが『俺は園子温だ!』というタイトルの、
自分自身をカメラにおさめた映画でした。

僕が見る限り、『ヒミズ』の頃まではこうした「自己との関係」が問題として通底しているように思います。

説明責任と自己

園子温が直接表現しているわけではないですが、自己との関係を問題にする背景には、社会に生きるものとしての「説明責任」があるのではないかと思っています。

自分が何者であるのかという問いに対する答えることは、社会に生きる中で至極当然のように求められます。そして、たとえ仮のものであっても何かしらの答えを持って生きている人が多いのではないでしょうか。その答えを、自分が自分に対して見出すアイデンティティという意味で、「セルフアイデンティティ」と呼びましょう。
セルフイメージのような漠然としたものではなく、明確に他人に伝えられる言語化された「自己」のことです。

社会に生きるためには、他者に対して説明責任を果たす必要があり、
説明責任を果たすためには、自分自身が自分との関係を確立し、セルフアイデンティティを作り上げる必要がある、ということです。

しかし、一度セルフアイデンティティを確立したからといって全てが解決するわけではありません。
セルフアイデンティティに反する行動をとる時もあります。あるいは、自覚なしにそうした行動をとってしまっていることもあるでしょう。
そうして、セルフアイデンティティと実態とが乖離する時に、説明責任が現実に課されるからです。

あなたはなぜそうした行動をとったのですか?
あなたはなぜここにいるのですか?
あなたはなぜこの学校に行こうと思ったのですか?
あなたはなぜこの会社に入ろうと思ったのですか?

しかし、園子温が映画の中で問いかけるように、自分のことは意外とよくわからないもので、
この問いに答えるのはとても難しいことだと思います。

『ヒミズ』の中で主人公の住田くんが直面するのも、セルフアイデンティティと実態との乖離でした。
彼は、自分は「普通」だと宣言し続けていますが、父親を殺してしまい「普通」であることからあまりにもかけ離れてしまいます。

その後の彼は、「自己との関係」を見失ったまま、安易な仕方でセルフアイデンティティを作り上げました。
彼は「悪者を殺す」という抽象的な正義に存在意義を見出したのです。
そして実際に、悪者を刺し殺すために街を徘徊しました。
悪を倒すというわかりやすい正義に説明は不要だからこそ、彼は自己と関係することなく、セルフアイデンティティをそうした正義の中に見出したのでしょう。
そうすることで、社会の中での存在意義を自ら作り出そうとしていたのです。

しかしそれは、本質的な解決ではありません。
自己との関係が確立できていないからです。
自己との関係を確立することなしにセルフアイデンティティを作り上げることは、絵の具でぐちゃぐちゃになった住田くんのように「グロテスク」なものなのです。

しかし、実際には自己との関係を確立することなしに、本当の存在意義は確立できません。
社会の中で存在意義を確立するために本質的に必要なことは、セルフアイデンティティを作り上げることではなく、自己と関係することだからです。

苦悩の時期

ところで、何か大きな出来事が起こると、出来事によって自分の中に大きな変化が起こります。あるいは、すでに生じていた変化が顕在化します。
『ヒミズ』の場合、父親を殺してしまったことが映画の中に描かれるもっとも大きな出来事でしょう。
その出来事は、住田くんの実態を顕在化させました。彼は「普通」であるというセルフアイデンティティを持っていたのに、実態は普通ではなかったのです。

彼はもう一度、その実態に合わせたセルフアイデンティティを作り直さなければなりません。
そうしなければ、彼はどう生きていけばわからないはずです。

しかし、自分がなぜその行動をとったのか、今まで普通だと信じていた自分はなんだったのか。
過去の自分は本当に普通だったのか。
今後目指すべきは相変わらず普通なのか。
普通でない行動をとった以上、自分は普通でない生き方をしていかなければならないのか。
そうした多くの問いに答えを出さなければ、彼は自己との関係を取り戻すことはできないでしょう。

自己との関係を作り直すのは容易なことではないし、
できたとしても、とても時間がかかることなのです。

そして、自己との関係が曖昧な時期にあっても、人は社会の中で生きる必要に迫られます。
自己との関係を諦めることもできません。おそらく自己との関係を諦めた場合には、絵の具でぐちゃぐちゃになった住田くんのように街を徘徊するゾンビのような人間になってしまうでしょう。

ですので、こうした自己との関係を構築し直す時期というのは、人生の中でもっとも思い悩む時期なのではないでしょうか。

(そのうち続き書きます)