ロバート・クシュナー氏は、ニューヨークで1970年代後半に隆盛した「パターンアンドデコレーション」運動の代表的作家。
2015年にも京都白沙村荘で個展が行われており(その時の様子はここが参考になる)、その時は比較的大きな作品が多かった。今回は、紙媒体のもののコラージュに植物を描きこんでいるものがメインの印象。なので、小ぶりで、見た目は地味なものが多い。
パターンアンドデコレーション運動に関してはまだまだ情報も少なく、こうしたアートをどう評価すればいいのか戸惑う面も大きいなと言うのが正直なところ。
ただ、作品を見れば
手工芸的な技術や素材(の混合)、模様、鮮やかな色彩など、モダニズムのなかで周縁的と見なされてきた要素を用いて装飾を二次的にではなくメイン・モチーフとして扱い、平面性を強調した
と言われるのがなんとなくわかる気がする。

 

一枚の作品が、色々な国から集められた新聞の切れ端や、本の一ページから作られていた。その中には日本の広告や漢字で書かれたものもあったりして、日本人の僕から見ると幾分か親近感を覚えたりもするものだった。
作品とどう向き合うか 戸惑い

 

クシュナー氏の作品には、新聞などの多くの素材が使われていて、その結果多くの「記号」が散りばめられている。
ここで記号とはつまり、漢字とかの色々な文字、あるいは何かのイメージでもいいのだが、一つのまとまった意味のある形のこととさせてもらいたい。

 

実際のところ、こういったコラージュ作品に対していつも思うのだが、作品上に散りばめられた「記号」に対してどういう態度で向き合えばいいのか、という点で戸惑ってしまう。

 

例えば、作品の中で日本の新聞紙がコラージュされているとして、そこに「事件」という言葉があったとする。日本人である僕がこの記号を読み取ると、「何かこの事件との関連で言いたいことでもあるのかな」とそこになにか意味を感じ取るのだが、おそらく作家本人はその言葉の意味を理解しているわけではない。特にクシュナー氏の場合、様々な国の言葉を用いているので、その全てを理解しているということは現実的に考えにくい。

 

つまり、僕は僕という一人称の立場で作品を見る限り、その作品に埋め込まれた記号(今の例で言えば「事件」という単語)から何か意味を見いだすことができて、それを頼りに作品を解釈するという読み筋が一つの可能性としてありえる。しかし、そういった読み筋自体は、おそらく作家のイメージの中にはなかった読み筋なのだ。

 

とすると、僕の読み筋が、作家の意図とは異なったものであることは間違いない。もちろん、作家の意図を読みとることが、作品の解釈の正解だとは限らないのだが・・・。
しかし、自分の解釈が単に主観的な感想に過ぎないもので終わるよりは、何かしらの客観性を持って認めてもらえるようにしたいと思うのは、自然なことだろう。

 

では、僕は読み取ってしまった記号の意味を捨て去って、その作品のイメージ全体を非記号的なものとして読み解けばいいのだろうか。そうすれば、中立的な立場で作品を読み解くことができる。

 

しかし、実際に僕が自然に読み取ってしまう記号をわざわざ否定するというのも嘘っぽい。言い換えるなら、「視覚の享楽」と言われているような、純粋に感性的な見方、形や色の戯れを楽しむという見方は、実際にほとんど自然に読み取ってしまう記号の否定をいうプロセスが必要となるようで嘘っぽい。

 

では、記号が散りばめられたコラージュ作品にどういう解釈や意味を見出せばいいのだろうか。

 

参考
同じ日に見た展覧会